災害による電子カルテ停止に備える:現場で実践する診療継続と情報共有の手引き
はじめに:災害時の電子カルテ停止という現実
医療機関にとって、電子カルテは日々の診療に不可欠な基幹システムです。しかし、地震、台風、大規模なシステム障害といった予期せぬ災害が発生した場合、電子カルテシステムが停止する可能性は常に存在します。このような状況下で、患者さんの命を守り、途切れることなく質の高い医療を提供し続けるためには、事前に具体的な計画を立て、現場スタッフ全員がその内容を理解しておくことが極めて重要です。
本記事では、災害により電子カルテが停止した際に、現場の医師や看護師、その他スタッフがどのように診療を継続し、必要な情報を共有していくべきか、その実践的な手引きをご紹介します。専門的なシステム知識がなくても、具体的な行動に繋がるよう、運用面からの解説を重視いたします。
なぜ電子カルテ停止時のBCPが現場に求められるのか
事業継続計画(BCP:Business Continuity Plan)は、災害などの緊急事態が発生しても、重要な業務を中断させない、または中断しても早期に再開させるための計画を指します。医療機関におけるBCP、特に電子カルテに関するBCPは、単なるシステムの復旧計画にとどまりません。
- 患者さんの安全と生命の確保: 電子カルテが停止すると、過去の診療記録、投薬情報、アレルギー情報など、診療に必要な患者情報にアクセスできなくなります。これは誤診や投薬ミスに直結し、患者さんの安全を脅かす重大なリスクとなります。
- 医療機関としての社会的責任: いかなる状況下でも患者ケアを継続することは、医療機関に課せられた重い社会的責任です。電子カルテ停止時もこの責任を果たすための準備が求められます。
- 現場スタッフの混乱と負担の軽減: 事前の計画がなければ、緊急時に現場は混乱し、スタッフ一人ひとりの判断と対応に大きな負担がかかります。具体的な手順と役割分担を明確にすることで、冷静かつ効率的な対応が可能になります。
- 診療の効率性と質の維持: 代替手段へのスムーズな移行、情報共有の仕組みを確立することで、緊急時においても可能な限り診療の質と効率を維持することができます。
電子カルテ停止時の「代替手段」を知る
電子カルテが停止した場合、どのような手段で診療を継続し、情報を管理するのかを理解しておく必要があります。
1. 紙運用への切り替え
最も基本的な代替手段は、紙カルテへの一時的な移行です。 * 緊急用診療記録用紙の準備: あらかじめ、緊急時用の診療記録用紙(氏名、生年月日、主訴、現病歴、既往歴、アレルギー、処方、検査結果などを簡潔に記載できるもの)を用意しておく必要があります。部門別に必要な書類(看護記録、検査依頼票など)も同様です。 * 運用フローの確立: 患者さんの受付から診察、処方、検査までの一連の流れを、紙運用に切り替えた場合のフローとして明確化します。誰がどの書類を記入し、どこに保管するのかを定めます。 * 患者識別と記録の一元化: 災害時は多くの患者さんが来院する可能性があるため、患者さんの識別を確実に行い、記録が散逸しないよう一元的に管理する仕組みが必要です。
2. 緊急時データへのアクセス
完全にシステムが停止しても、一部の情報にアクセスできる場合があります。 * オフライン閲覧可能なバックアップデータ: 電子カルテベンダーによっては、システム停止時に一部の患者情報をオフラインで閲覧できる簡易ビューアや、USBメモリなどに保存されたバックアップデータを提供する場合があります。 * 重要情報の印刷物: あらかじめ、アレルギー情報、内服薬情報、既往歴などの重要情報を含む「患者サマリー」を定期的に印刷して保管しておくことも有効です。ただし、情報が常に最新ではない点に注意が必要です。 * 手書きでの情報収集: 既存の記録にアクセスできない場合、患者さん本人やご家族からの聞き取り、現病歴からの推測など、手書きでの情報収集が不可欠となります。
3. 情報共有の確保
電子カルテが使えない状況下では、院内での情報共有が極めて困難になります。 * 院内連絡体制の構築: 携帯電話、無線機、院内放送、伝言ボードなど、状況に応じた複数の連絡手段を確保し、指示系統を明確にします。 * 情報伝達ボードの設置: 各部署や診察室の入り口に、現在の状況、医師の指示、共有すべき患者情報などを手書きで記載するホワイトボードや掲示板を設置します。 * 口頭での情報伝達の徹底: 医療従事者間での口頭による情報伝達は、緊急時には非常に重要です。ただし、誤解を避けるため、確認・復唱の徹底が求められます。
現場で実践する具体的なステップ
ステップ1: 状況把握と初動対応
災害発生により電子カルテシステムが利用できなくなった場合、まず行うべきは状況の把握と初動対応です。 1. システム障害の確認: IT担当者(またはシステムの責任者)がシステムの状態を確認し、復旧見込みを把握します。 2. 電子カルテ停止宣言: システムの停止が確認され、一定時間内の復旧が見込めない場合、院長やシステム責任者などの権限者が「電子カルテ停止、紙運用への移行」を宣言します。この宣言は院内放送や緊急連絡網を通じて全スタッフに速やかに伝達されます。 3. 役割分担の確認: 各部署の責任者は、BCPで定められた緊急時役割(例: 記録用紙の準備、情報伝達、患者誘導など)を再確認し、スタッフに指示します。
ステップ2: 紙運用への移行手順
電子カルテ停止宣言後、速やかに紙運用へと移行します。 1. 緊急用診療記録用紙の配布: あらかじめ用意しておいた緊急用診療記録用紙を各診察室、病棟、救急外来などに配布します。部門別の記録用紙も同様です。 2. 患者識別と基本情報の記入: 来院した患者さんには、新しい通し番号(緊急時ID)を割り振り、氏名、生年月日、性別、来院理由などの基本情報を記録用紙の先頭に手書きで記入します。可能な限り、診察前に患者さんからアレルギーや内服薬に関する情報を聞き取り、記録します。 3. 診療記録の記入: 医師は診察内容、診断、指示、処方などを詳細に記入し、看護師はバイタルサイン、実施したケア、特記事項などを記入します。全ての記録には、記入日時と氏名(またはサイン)を明記します。 4. 記録用紙の保管: 記入された記録用紙は、散逸を防ぐため、所定の場所(例: 緊急時カルテファイル、指定された保管箱)に集約して保管します。
ステップ3: 患者情報の緊急アクセス方法
過去の診療情報が必要な場合、可能な範囲でアクセスを試みます。 1. オフラインデータの活用: 簡易ビューアや印刷物として準備されたオフラインバックアップデータにアクセスし、患者さんの基本情報やアレルギー、処方履歴などを確認します。 2. 簡易印刷機能の利用: もし一部のシステムが稼働している場合、限られた範囲で患者情報の簡易印刷機能が利用できるか確認します。 3. 患者・家族からの情報収集: 最も確実な情報源は患者さん本人やご家族からの聞き取りです。既往歴、内服薬、アレルギーの有無などを丁寧に確認し、記録に反映します。
ステップ4: 情報共有と指示系統の確立
混乱時こそ、正確な情報共有と明確な指示系統が重要です。 1. 定期的な全体ミーティング: 各部署の責任者が集まり、定期的に情報共有ミーティングを開催し、患者さんの状況、必要な医療資源、スタッフの配置などを共有します。 2. ホワイトボード・伝言ボードの活用: 診察室の状況、病棟のベッド状況、検査結果の一部、全体の指示などを、各部署に設置されたホワイトボードや伝言ボードに随時記載し、情報が共有されるようにします。 3. 口頭指示と復唱確認: 医師からの口頭指示は、必ず看護師が復唱し、その内容を記録用紙に手書きで残します。薬剤師、検査技師との連携も同様です。
ステップ5: 復旧後のデータ統合
電子カルテが復旧した後の対応もBCPの重要な要素です。 1. 情報入力の計画: 復旧後、紙カルテに記録された情報を電子カルテにいつ、誰が、どのように入力していくのか計画を立てます。膨大な情報量になるため、優先順位をつけて効率的に作業を進める必要があります。 2. 入力時の注意点: 紙の情報と電子カルテのデータとの間に齟齬が生じないよう、慎重な入力と照合が求められます。特に処方や検査結果は二重確認を徹底します。 3. 現場スタッフへの負担軽減: 復旧後のデータ入力作業は現場スタッフにとって大きな負担となるため、計画的な人員配置や、必要に応じて外部のサポートを活用することも検討します。
効果的な訓練と準備
BCPは策定するだけでなく、定期的に訓練を行い、その実効性を高めることが不可欠です。 * 机上訓練と実地訓練の組み合わせ: 計画書を読み合わせるだけの机上訓練だけでなく、実際に紙カルテを記入したり、情報伝達手段を試したりする実地訓練を定期的に実施します。 * シナリオベースの訓練: 「特定地域の地震発生で電子カルテ停止、通信網も一部不通」といった具体的なシナリオを設定し、それに基づいてスタッフがどのように行動するかを訓練します。 * 現場スタッフの意見反映: 訓練後には必ず振り返りを行い、現場のスタッフからの意見や改善提案を積極的に取り入れ、BCPをより実践的なものへと改善していきます。 * 定期的な見直し: 電子カルテシステムの更新や組織体制の変更に伴い、BCPも定期的に見直し、常に最新の状態を保つことが重要です。
まとめ:備えあれば憂いなし
災害による電子カルテの停止は、医療機関にとって避けられないリスクの一つです。しかし、このリスクに対して、現場スタッフが「何をすべきか」を明確に理解し、具体的な代替手段を準備し、日頃から訓練を重ねておくことで、緊急時においても冷静かつ迅速に対応し、患者さんへの安全な医療提供を継続することが可能になります。
電子カルテBCPは、単なるシステムの復旧計画ではなく、患者さんの命を守り、医療機関の機能を維持するための「備え」であり、最終的には現場で働く全てのスタッフの「安心」に繋がるものです。この手引きが、皆様の医療機関におけるBCP策定と運用の一助となれば幸いです。